概念考古学CONCEPT ARCHAEOLOGY伊東雄歩

発掘概念

幸福

「幸せになりたい」と口にした時点で、たぶんもう半分逃げられている。理由は、言葉の中にある。

古代〜近代6

「幸せになりたい」と口にした時点で、たぶんもう、半分逃げられている。

理由は、言葉の中にある。「幸福」を掘ると、僕らが信じている前提が、ほとんど後付けだったとわかる。

前へ歩きながら、指先のすぐ先で逃げていく光の珠に手を伸ばす人影。同じ光は、本人の足元に伸びた長い影の中に、気づかれぬまま既に在る。

「幸福」は、もともと“運”だった

「しあわせ」という和語を分解すると、「し合わす」。「する」と「合わす」がくっついた言葉になる。意味は「めぐり合わせ」。二つの出来事が、たまたま噛み合うこと。

だから古い日本語では、良いめぐり合わせも、悪いめぐり合わせも、両方「しあわせ」と呼んだ。「仕合わせが悪い」という言い方が、いまも化石みたいに残っている(※1)。つまり「しあわせ」は本来、自分では選べない、降ってくるのことだった。

漢字の「幸」も不穏だ。あの字、もとは手枷(てかせ)、罪人を縛る刑具の形だとされる。手枷だけで済んで、死を免れた。その僥倖から「さいわい」の意味が生まれた、という説がある(※2)。幸福の「幸」は、最悪を逃れた安堵から来ている。

英語の happiness も同じだ。語源は hap、「偶然・運」。happen(起こる)、perhaps(たぶん)と同じ血筋にある。

日本語でも英語でも、幸福はもともと「自分の手柄」じゃなかった。降ってくる運であり、巡り合わせだった。

僕の人生でいちばん「仕合わせが悪かった」のは、2000万を飛ばして訴訟になり、借金で止まった時期だ。いちばん良かったのは、子どもが生まれた日だった。どちらも、よく考えれば、自分で選んでなどいない。ただの、巡り合わせだ。

いつ、幸福は“掴むもの”に書き換えられたか

ところが近代は、この「運」を「自力で掴む目標」に作り変えた。「幸福になりなさい」「幸福を追求する権利」。降ってくるはずのものが、努力で達成すべきノルマになった。

ここで、もう一つのすり替えが起きている。

古代ギリシャの幸福=エウダイモニアは、アリストテレスにとって「気分のよさ」ではなかった。eu zēn(よく生きる)、eu prattein(よく行為する)。それは徳をともなう活動であり、人生全体にわたって“やり続ける”ものだった。英語でも、本当は happiness より flourishing(開花)が原義に近いとされる(※3)。

それが「幸福」と訳され、輸入されるうちに、動詞が名詞に、活動が感情に痩せていった。「よく生きること」だったはずの幸福は、いつのまにか「気分がいい状態」へと縮んだ。

「幸福」という概念の地層断面図。深層から、巡り合わせ(運・吉凶両方)、エウダイモニア(よく生きる活動)、幸福(名詞化・気分)、幸福度(数値・ランキング)へと積み重なる様子
発掘断面図 ──「幸福」もまた、地層でできている。

測ろうとした瞬間、幸福は逃げる

止めを刺したのは、数えることだった。

18世紀、ベンサムは幸福を快楽と苦痛の差と定義し、強度・持続・確実性…7つの物差しで計算する「快楽計算(felicific calculus)」を構想する。「最大多数の最大幸福」。幸福は、ついに計算可能な量になった(※4)。

その末裔が、いまの僕らを取り囲んでいる。国民総幸福量(GNH)、世界幸福度ランキング、well-beingスコア。国も、会社も、アプリも、君の幸福を採点したがる(※5)。

だが、ここに罠がある。

経済学者イースタリンは1974年、奇妙な事実を見つけた。所得が増えても、国全体の幸福は上がらない。理由は、社会比較と「慣れ」。隣が豊かになれば物差しも上がり、手に入れた幸福にはすぐ慣れる(※6)。測れば測るほど、「まだ足りない」が更新されていく。

哲学者シジウィックは、もっと根本を突いた。幸福の逆説。快楽を意識的に追いかけるほど、かえって手に入らない(※7)。

幸福は、逃げ水だ。「幸せになろう」と狙って走るほど、同じ分だけ遠ざかる。

幸福を、追うのをやめる

だから一回、巻き戻したい。

幸福は、掴む目標でも、測る数値でも、なるべき義務でもない。もともとは、降ってくる運(巡り合わせ)であり、そして「よく生きる」という活動だった。

このふたつは、実は一本につながる。運は選べない。でも、目の前を“よく”やることは選べる。 巡り合わせはコントロールできないが、来た巡り合わせにどう動くかは、自分で決められる。アリストテレスが「活動」と呼んだのは、たぶんそれだ。

幸福度スコアが何点でも、今日、目の前のことに気持ちよく手が動いたなら、それは“よく生きて”いる。逆に、全指標が満点でも、ランキングの順位に怯えているなら、もう逃げられている。

何を「幸せ」と呼ぶか。その判定をアプリとランキングに明け渡した瞬間、僕らは幸福を、また外注に戻している。今度は運ですらない、他人の物差しに。


「幸せですか?」と聞かれて、すぐ答えられなくていい。

スコアの代わりに、ひとつだけ自問してみてほしい。 今日、目の前のことに、ちゃんと手が動いていたか、と。

出典・註

  • ※1 「しあわせ」=「し合わす(為合わす)」「仕合わせ」=めぐり合わせ。古くは吉凶の両方に用いられた。語源由来辞典ほか。
  • ※2 「幸」の字源を手枷(刑具)とし、重刑を免れる僥倖から「さいわい」の意が生じたとする説。字源には諸説がある。
  • ※3 アリストテレス『ニコマコス倫理学』のエウダイモニア。eu zēn(よく生きる)・eu prattein(よく行為する)=徳ある活動。英語では flourishinghappiness より原義に近いとされる。
  • ※4 J.ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』の快楽計算(felicific calculus)と「最大多数の最大幸福」。
  • ※5 ブータンの国民総幸福量(GNH。1970年代後半に第4代国王が提唱)、および2012年以降の World Happiness Report。GNH には主観性・人権問題の観点からの批判もある。
  • ※6 リチャード・イースタリン(1974)の「イースタリン・パラドックス」。社会比較と快楽適応(hedonic adaptation)による。
  • ※7 ヘンリー・シジウィック『倫理学の方法』が論じた「快楽主義の逆説(paradox of hedonism)」。